HARLEY-DAVIDSON - index


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Early Model /用語集


  1903年ドディオンタイプの3psエンジンを搭載したエンジン付自転車が製作された。それは製品としてではなく、またプロトタイプというわけでもなかったようである。当時アーサー・ダビッドソンとウォルター・ダビッドソンの兄弟はミルウォーキーのバース工業で働いていたが、そこで知り合ったドイツ人技師から二人はエンジン設計の基礎を学んだといわれる。1号車サイレントグレーフェローはこの二人に加えビル・ハーレーの車体設計が加わって完成した。

 翌1904年には2台が販売されたがHarley-Davidson Motor Companyの名とロゴはこのときに決まった。車体は光沢のある黒に塗られ、赤のストライプが引かれたがこれは叔母のジャネット・ダビッドソンの手書きによるものだった。エンジンは信頼性に富んだ設計で、ビル・ハーレーのループフレームもまたダイヤモンドフレームで問題となる応力を発生させない設計だった。3人は夜と週末を作業時間にあて1905年には8台、1906年には50台を販売した。1907年にはダビッドソン兄弟の長兄ウィリアム・A・ダビッドソンが参加し、150台を生産。そしてHarley-Davidson Motor Companyは会社組織となった。初代社長としてウォルター・ダビッドソンが就任。技術部長にビル・ハーレー、総務/営業部長にアーサー・ダビッドソン、労務部長にウィリアム・A・ダビッドソンという構成で会社は急成長し1908年には450台を生産、従業員は18名に増え、3*4.5mの小屋から始まった工場は221uの新築工場へ発展した。

 同社の2気筒エンジンが最初に作られたのは1909年。クラッチ、フリーホイールハブユニットが生産されたのは1912年。1914年には後輪にドラムブレーキが付き、ステップスターターと呼ばれたキックアーム、チョーク、ミッションが搭載された。1915年にはミッションが3段になる。

 1913年の時点で工場は27600u、従業員数は1574人という大所帯になっていたが、WWIの需要により1918年には同社は世界一の規模のオートバイ会社になった。同社の成長の逆風となったのはまず1920年の恐慌だったが1922年には経済は好況に転じる。20年代からハーレーダビッドソンの売上を圧迫しその成長に歯止めをかけたのは四輪車の普及である。

 1960年ハーレーダビッドソンのラインナップに中量級車両を加えるために同社がとった手段はイタリア アエルマッキのオートバイ部門の半分を買収してハーレーダビッドソンブランドで売り出すことだった。モデルは1960年9月に発表されるが主に電気系の性能が充分でなかったとされ失敗に終わる。日本車に比して時代遅れであったため、またディーラーがその販売に積極的でなかったためといわれる。イタリア バレーゼの工場は1978.6.14に閉鎖された(この工場はイタリアの投資家に売却され、現在のカジバブランドのオートバイを生産した)。

 ベトナム戦争時代、アメリカでは企業の買収が盛んに行われ小さな会社はコングロマリットに次々と吸収されていた。ハーレーダビッドソンは1965年に株式を公開していたが、東海岸で企業買収に熱心だった会社バンガープンタに目をつけられた。バンガープンタは吸収した企業を食い物にするといううわさがあり、ハーレーダビッドソン首脳はこれに対向すべくAMF(American Machine & Foundry)社との合併を進めた。当時インディアンもすでになくアメリカ唯一のオートバイメーカーとなっていた同社は堅実な経営と評価が高く、AMFには願ってもない話であった。AMFはこの買収に3000万ドル以上を支払い、1969.1.7、ハーレーダビッドソンのいわゆるAMF時代が始まる。この時代同社の首脳陣は頻繁に入れ替わり、会社の体質もまた変わったようであるが、AMFの投資はマシンのクオリティを確実に押し上げた。だがハーレーダビッドソン製品の利益率の低さにアエルマッキの赤字が重なり、さらにストライキ、大排気量日本車の進出の問題がAMFにハーレーダビッドソンの売却を決意させた。合併時の社長ウィリアム・H・ダビッドソンはAMFコングロマリットの間違いについて「ハーレーダビッドソンはホンダにはなりえない。同社は大量生産メーカーではない」と答えている。1981.6.23、ハーレーダビッドソンは12人の役員の活動により買い戻され、AMF時代に終わりを告げた。

 1992年モデルより日本国内のディーラー店頭標準価格が設定され、価格表示が統一された。